企業法務マン迷走記2

 大船ならぬ「酔っぱらった船」に乗ったかのような企業法務担当者の日常


いまだに聴く「現在進行形」の音

 U2の新譜がiTunesで無料ダウンロードということで、iTunesをのぞいてみてついダウンロードしたのですが、「U2なんか聴かないのに、何だありゃあ」というクレームもあったそうで。趣味はいろいろですからね。 
 メンバーのほとんどが50代半ばとなり、今や何をやっても「ま、U2だからねえ」と大御所扱いの観があります。(聴いているほうも50代を迎えるのですがorz) 
 今回はその新譜ではなくて、この秋で発売からちょうど30年を迎えた彼らの「The Unforgettable Fire」について。

 30年前といえば埃をかぶった昔のこと、当時の記憶も霞んできていますが、このLPを買ってA面に針を落とした途端(アナログLPの醍醐味か)に「おおお!違う!変わった!」と思わず声を上げそうになったことを今でも憶えています。
 今でこそ大御所の4人組ですが、80年代前半はサードアルバム「WAR」がヒットしましたが、まだ「アイルランドのローカルヒーロー」的な存在。初期のアルバムの音は寒いダブリンのスタジオで録音したのだろうと勝手に思ってしまうようなものでした。(この音作りそのものは嫌いじゃありませんが)
 メンバーの他にこのアルバム制作に深く関わったのは、Brian EnoとDaniel Lanoisの2人。環境音楽ほか実験的な作品の多いEnoとそのレコーディングを支えていたLanoisが制作現場に居合わせることにより、新しい方向性を模索していたバンドが自由に歌い演奏している空気が伝わってきます。即興やアイデア一発で仕上げたような曲もあるため「完成度に疑問」と評価する人もいるのですが、自分はこの「勢いでできた感」「二度と同じことはできない感」がかなり好きなのです。何より完成度ではなく「現在進行形」の姿をそのままみせている(聴かせている)ところでしょうか。
 
 何かことあるたびに(異動のとき、新しい仕事を担当するときなど)引っ張りだして聴いているうちに気がつけば30年。さて今このアルバムを聴く自分は次に何をしたいのか、そこが問題。

焔
U2
ユニバーサルインターナショナル
2010-08-04


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「絶つ」ということ

 BLJ「独禁法の道標」、ジュリスト「独禁法事例コレクション」と法律誌で独禁法をテーマとした記事が連載されています。たまに自分の業界に近いところの事例が取り上げられていることがあり、心が痛むときもありますが、何にせよ独禁法リスクは常に頭のどこかに置かざるをえません。当事者が意思をもって法を侵す「談合 」ではなく、諸々の「うっかり違反」のほうが今はこわいのですが。前者については、こういう言い方はどうかと思うのですが、「談合をできる人間」がいなくなってしまったのでリスクが低下しているというところでしょうか。
 
 もうひと昔もふた昔も前に会社が「このマーケットはNG」と決めつけ、談合の事実の有無を問わず、その手の仕事には一切かかわらないと急旋回しました。急に舵を切ることで振り落としたわけで人事異動、部門解散、事業(子会社も含む)の売却などの手段をとりました。
ばっさり「断つ」のが特効薬(劇薬)とばかり、様々な背景、事情は一切考慮なしでした。個々の事情をいちいち容れていたら悪しき「商習慣」は断てませんからね。
 この手の仕事は「人的繋がり」ありき。関わっていた人間、関わりそうな人間を外してしまえば自然と仕事の継続はできなくなります。根から「枯らした」わけです。
 対象となったマーケットは「談合」ありきではありません。基本的にはごくまっとうな場所です。ただマーケットの仕組み、仕事の組立をきちんと理解しておかないとまったく仕事になりません。人を断つ事でそのマーケットに取り組むことが難しくなった面はたしかにあります。そのことに未練がある人間もいないわけではありません。

 「断つ」決断は現場ではできないものです。
経営陣、リスク管理部門の覚悟と決断によらざるをえないと思うのです。


 


  

文章「力」なのか「術」なのか

 文章力、文章術の向上をうたう書籍や記事は本当に絶えませんね。
「ビジネス法務」の11月号の特集記事も「法務部の「伝わる」文章術」ですね。
このような特集が組まれるということは、自分が書いた文章が相手に伝わらなくてお悩みの企業法務部員がいらっしゃる、ということなのでしょうか。
法務部門の人間は文章作成能力は高いと思うのですが、その読み手に通じるものではなくては、読み手にとっては外国語で書かれているのと似たようなものですからね。
「たぶん正しいのかもしれなけけれど、難しくてよくわからないよ」とか「このままじゃ、お客さんに説明できないよ」といわれるケースがあるのかもしれません。
「文章」ではなくて「文章」とした理由は、力はあるのだからあとはそれを「活かす術」だよということでしょうか。

 自分がサラリーマンになった昭和末期(こう書くと本当に年取った感が増すなあ)は、オフィスのフロアにワープロが数台置いてあるという状況で、日常業務で作成する書類というのは、ほぼ手書きです。正式に提出する見積書や請求書のほか社内稟議書類でさえカーボンを通して2枚、3枚綴りにして(わかるかな)ボールペンでがりがり書いていたものです。
 その頃は販売部門にいましたので、稟議書類の内容は「工場出荷価格の特別値引依頼」、「●物件受注対応に関するお願い」といったものですが、上司に判子をもらう以上下書きの段階で文案を見てもらういます。すると、冒頭の数行を読んだだけで「だめ、書き直し」といわれるか「ちょっと預かる」と持っていったあと、しばらくして赤ペンで真っ赤になったものを返されました。
いわく
「文面からお前の意思が読み取れない」
「読み手のロジックや関心事を考えたか」
「何のために書くのだ?読んでもらって終わりか?アクションをとってもらうのが目的だろう」

などなど鬼の指導を受けました。(だいぶあとになってミントの「考える技術・書く技術」を読んで、似たようなことが書かれていたのでびっくりしましたねえ)
ひとつの文書が完成させるまで時間がかかりましたし、ごりごりと指導を受けているときはしんどかったのですが今になって思えば、というところですね。あの時期を通じて得たのは「文章力」のほうだったと思います。


 読み手の思考、関心事、読んだときの反応を想定しながら書くというのは簡単な作業ではありません。
文書作成に時間ばかりかけてもいられない現実もありますが、だからといって文書テンプレート頼みや小手先のテクニックだけでは文書は格好がつくかもしれませんが、読み手に底の浅さがばれてしまうかもしれません。
 限られた時間で読み手に伝わる文書を書く、ということに必要なのはやはり「力」の方ではないのかなあと思った次第。





 
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