某界隈で話題となっている「狭小住宅」は読み手によって様々な反応を生むでしょう(すでに生んでいますか)
読み手は「不動産(投資も含む)界隈の人」「これから都心で家を買おうとする人」「不動産販売に限らず、営業、販売職にある人」などが中心でしょうけれど。
 
 書名にある「狭小住宅」という住宅は、一時期注目を集めていた記憶があります。品川、世田谷、目黒などにある150坪ぐらいの「お屋敷」が相続などで手放されたあと、その跡地に3〜5区画で分譲された3階建の戸建住宅(半地下駐車場とかね)でしょうか。リーマンショック前、耐震偽装をうけた改正建築基準法施行前に跋扈したミニ開発。もっともその頃から「街の景観が悪くなり、資産価値を毀損する」といった理由で区によっては開発制限をかけられてもいましたから、なんというか「鬼っ子」のような存在。それでも都心に一戸建てという「夢」を叶える存在ではありました。
 一方で限られたスペースでいかに快適な住空間を創造するか、建築家の「アーティスト魂」に火を点けたのか、あえて狭小住宅を手がけた建築士もいます。建築事例として「狭小住宅」や「9坪ハウス」といったタイトルがついた住宅写真集も出版されました。だから、この作品が話題になったとき小説とは思わなかったので、今更なんだろうといまひとつピンとこなかったのでした。

狭小住宅63 ワールドムック317
Memo男の部屋編集部
ワールドフォトプレス
2001-06


 それはともかく。
 住宅販売業者に就職し宙ぶらりんな主人公が課長の同行営業のあとに詰められる場面を読んで思い出したのが、昔勤務先の営業本部長がことあるごとにいっていた「数字は人格だ」というフレーズ。

 ネタバレご容赦で触れますが、主人公は営業車で移動するときに幹線道路を使ったことを例に、課長から仕事に対する姿勢を詰められます。見込客を案内するときに渋滞にはまってどうする、営業エリアの路地ひとつ知らない営業マンが客の信頼を得られるか、「向き不向き以前にやるべきことをやっていない」と詰められるシーンです。自分はとうに営業現場を離れていますが息が詰まりました。

 勤務先の営業本部長のいう「数字は人格だ」には二重の意味がありました。ひとつは言葉から受ける印象どおり「数字を達成できない営業マンがしのごいう資格はない」という意味、もうひとつは数字を達成する人間は、それだけのことをやっているという意味。顧客対応はいうまでもなく、顧客の要望を実現するために必要な社内調整、協力業者に対する気配りなど、仕事に向かう営業担当者の姿勢とその人となりの結果が数字だ、だから「数字は人格」なのだと懇々と説かれました。にこやかだけど目は笑っていないそんな表情をしていうのですからこんなに怖いものはない、怒鳴り散らされたほうがなんぼか楽です。
おそらく本小説の主人公君も思ったかもしれません。
主人公君は課長との同行営業をつうじて仕事のスジのようなものをつかんでいったと思います。

 この小説は、主人公のありがちな成長サクセスストーリーにも、不動産業界の内幕ものにも、ブラック業界摘発ものにも陥らず、読者を放り出すような形で終わります。自分はこのエンディングが好きです。
毎日どこか不安を抱えながら、それでも次の訪問先で話すことを考えながら営業車のアクセルを踏む、それが営業担当者の現実ですからね。

 ところで前エントリーで取り上げた「ニュータウンは黄昏れて」の文庫版のあとがきには、主人公の分身=著者の後日談が掲載されています。結局「ニュータウン」を手放し、都心にある住宅を買い求めたとあります。週末ごとに不動産業者に連れられて何物件も戸建住宅を見て回った末に、わけあり物件を即決で買ったとあります。
案内したのは、この「狭小住宅」の登場人物たちのような営業マンかもしれませんね。