秋の初めに父が亡くなり、相続他諸々で入り用なので父祖のルーツの地である関東地方のとある町役場から改正原戸籍謄本を取り寄せました。謄本をみて初めて知る家族の事実というものがやはりありました。で、イエというものについて。

 「家族・家庭・家門」としてのイエ。
「婚姻」は前者の家族家庭の始まりであるわけですが、今年は夫婦同姓云々だけでなく夫婦同性婚も話題になっていましたね。自分は家族の始まりの形が多様化してきたというよりは、明治期に定めた家族法が押さえ込んできたことが、やはり押さえきれなくなったというように思っているのですが違うのかな。
 家族の始まりの形の多様性を認めるならば、終わりの形の多様性も求められるはず。遺族年金や相続にかかわる制度、戸籍制度も現行のままでは不利益を被る人もでてくるわけで。先日の判決は一つの判断にしか過ぎず、仮に夫婦別姓婚が認められたとしても、超えなくてはならないハードルはあるでしょう。葬儀や相続など夫婦や家族の終わり方から始まりの形を考えることも必要ではないかと思うのですよ。

 「家族の容れ物」としてのイエ。住まい、住居のこと。そして「資産」としてのイエ。
夫婦や家族のあり方が変われば、その容れ物である住まいのあり方も変わるし、資産としてのあり方もどうなるか ということ。
 00年代初めに上野千鶴子が発表した建築家の隈研吾や山本理顕らとの対談集「家族を容れるハコ、家族を超えるハコ」。今読むと当時「そうかなあ」と首をひねっていたことでも特別とんがったことでもなかったと思えます。(全てではありませんが)
 しかし対談集から20年も経たないうちに悲劇的な方向に進んでいるハコもあります。「ニュータウンは黄昏て」に登場した団地とそこに住む家族がそうでしょうし、最近問題になった違法介護ハウスはもっとも悲惨な事例かもしれません。

 婚姻も高齢者介護も相続もイエのカタチの話として切り離せるものではない、例の合憲判決を巡っての話にはあまり乗れなかったので、ちょっとぶつくさ備忘録代わりに。