企業法務マン迷走記2

 大船ならぬ「酔っぱらった船」に乗ったかのような企業法務担当者の日常

読んだ本・聴いた音楽


タルカス、そしてヒーローの死

 今年はミュージシャンの訃報が続きますが、昨日もたらされたキース・エマーソンの訃報はきついものでした。昨日朝の時点では急病か何かと思っていたのですが、どうやら拳銃自殺との話で。チケットは取っていませんでしたが来日コンサートが予定されていたなかでのこの知らせ。。。

 ロックミュージックはギタリストが主役という時代に、当時は未知数の電子機器だった巨大なシンセサイザーをステージにどんと置いて、オルガンにナイフを突き刺したりひっくり返したりする一方、凄まじいテクニックで演奏を繰り広げるキース・エマーソンは、ギタリストではないロック少年のヒーローだったと思います。(さすがに全盛期をリアルタイムで味わった世代ではありませんが)

 本格的に洋楽を聴き始めた10代の頃(80年代初め)どこでどうこじれたのかプログレッシブ・ロックを聴きこむ時期がありました。その当時ですらすでにプログレッシブ・ロックは衰退したジャンルでしたが、EL&Pの「展覧会の絵」や「タルカス」は本当によく聴きました。初めて聴いたときに「なんだこれ?」と異質感を抱きながら、愛聴盤になっていったレコードは何枚かあるのですが、その1枚は「タルカス」なのでした。またジャズやフュージョン(通じるかな)に関心を持つきっかけにもなりました。キース・エマーソンは、自分の中ではけっこう大きな存在だったと思います。

 かつてのヒーローの老境を迎えてからの自死。本当に堪えますね。



スターの死におもう

時間という、鳴りの狂った時計をば欺いてやる目的で
   二十種も詩風を変えて歌ってきた
このやり方で避けてきた、称賛も、
  さては高貴な酷評も
   出典:コクトー『平調曲』堀口大學訳

 デビッド・ボウイの訃報に接した時、『平調曲』の冒頭の一節(この一節だけ妙に頭にこびりついているだけで、全篇を諳んじることができるわけではない)が頭に浮かびました。ボウイも時代とともに作風、サウンド、ファッションを次々と変えていました。過去の自分のスタイルや実績にこだわらない点では、ジャズの帝王マイルス・デイヴィスの姿と重ねてしまいます。
 個人的にはブライアン・イーノと組んだ「ロウ」あたりが好きなのですが、それも彼の音楽人生の1ページに過ぎず、軽々に評価を決められない人であります。
 今後様々な評論が出回ることを思いますが、何を語っても群盲象をなでるということになりそうです。

 日経の1月13日付朝刊の春秋欄でもボウイを取り上げ、最後に企業経営者に対して無茶ぶりなコメントを付しているのがなんとも。過去の実績にとらわれ、時代の変化に遅れをとるなということですが、ボウイは時代を作っていった方ですからね。ちょっと違うかも、と思ったわけです。ただ過去しか語る、すがるものがない人生というのは虚しいものであるのは確かですね。

 凡人の自分はいつまで走り続けられるか、と自問しています。

 

 

愚かなる買い物 

 我ながらアホだなあ、バカだなあという買い物があります。音楽CDのリマスターやBOXセット、海外SFの新訳、復刊に弱い。本当に弱い。金を貯められない人間のパターンです。
 音楽CDを例は、【ナイアガラ】シリーズやマイルス・デイヴィス。『ロンバケ』だとLP盤を含めて何枚あることやら。マイルスの「オン・ザ・コーナー」や「アガルタ」もLP盤からCDまでなんだかぞろぞろ在庫があります。貧弱なオーディオではリミックスの違いなどわからないのにね。

 そして海外SF。気をつけよう気をつけようと言い聞かせていたのにやってしまいましたよ。フィリップ・K・ディックの新訳。ハヤカワSF文庫から刊行されていたいわゆる「ヴァリス」三部作の新訳版をフラフラと買ってしまいました。 創元SFによるサンリオ文庫復刊版を既に読んでいるのにアホです。帰宅して本棚を眺めてみたら、同じディックの「暗闇のスキャナー」と「スキャナー・ダークリー」と同原作、訳者違いの版が並んでいましたので目眩がしました。反省なし。
 今恐れているのは、S・レムの「ソラリス」新訳(ハヤカワSF)や、既に刊行されている新潮のT・ピンチョンの新訳版の存在。書店で見かけても目を瞑るようにしてその場を去るようにしていますが、この先について自信が持てません。
 出版社はかつてSFに夢中になっていたおっさん層を狙っているのでしょうか。新しい読者を開拓しようとしているのでしょうか。(そういえば自分の傍で二人連れの中学生らしき男子が「アンドロ羊」を手に取っていましたが)

 ちょこっとしか違わないのに某会社法、某商取引法や某租税法を買うのと同じこと、何だって一番新しいのが正しいのだと自分をごまかしています。

 休日なので埋め草的エントリでした。

ティモシー・アーチャーの転生 (創元SF文庫)
フィリップ・K. ディック
東京創元社
1997-02





  

HOMMAGE A EBERHARD WEBER を聴く

 
 Eberhard Weberって誰?ECMレーベルって何?という人にはまったく申し訳ないのですが。


  
  ドイツのジャズ・ミュージシャンであり、ECMレーベルを代表するミュージシャンの生誕75周年を祝うコンサートの模様を収録したアルバム。本人は残念ながら数年前に脳梗塞で倒れたため演奏ができない身体となっているのですが、ライナノーツをみると、過去の彼の演奏記録とナマの演奏を合わせたコンサートだったようです。コンサートに参加しているミュージシャンは、ジャケットデザインと一体となったクレジットの通りなのですが、ECMレーベルと彼に縁の深いメンバー中心でファンとしてはこれだけでも涙腺と財布の紐がゆるんでしまいます。

 本作の中で自分にとって思い入れの深い曲は4曲目に収録されている「MAURIZUS」
初めて聴いたのは10代の終わり頃。
この曲がきっかけで、彼とECMレーベルの音楽にのめり込んでいったといっても過言ではありません。演奏家生活40周年記念コンサートのライブアルバムでもこの曲が収録されていたので、多分彼にとっても思い入れのある曲なのかもしれません。

Stages of a Long Journey (Ocrd)
Eberhard Weber
Ecm Records
2007-07-24


 こういう企画は、ともすれば同窓会的な内容になってしまいがちなのですが、そうはさせないのが2曲めに配したPat Metheny(彼もECM出身ですし若い頃共演もしている)の手による30分を超えるオリジナル大曲です。今やジャスギタリストの大御所ともいえるPatですが、ライナノーツにも一文を寄せており、Eberhardgaが彼にとっても特別な存在であることが窺えます。

 Eberhardが演奏はできないまでも健在であったこと、そしてJan Garbarek、Gary Burtonといった縁のある(かつ高齢)ミュージシャンたちが依然高水準の演奏を続けていることがわかり、長年のファンにとって愛蔵・愛聴盤になることは間違いありません。

 単なる趣味趣味音楽エントリでした。すみません。

 
 


 

数字は人格だ 「狭小住宅」

 某界隈で話題となっている「狭小住宅」は読み手によって様々な反応を生むでしょう(すでに生んでいますか)
読み手は「不動産(投資も含む)界隈の人」「これから都心で家を買おうとする人」「不動産販売に限らず、営業、販売職にある人」などが中心でしょうけれど。
 
 書名にある「狭小住宅」という住宅は、一時期注目を集めていた記憶があります。品川、世田谷、目黒などにある150坪ぐらいの「お屋敷」が相続などで手放されたあと、その跡地に3〜5区画で分譲された3階建の戸建住宅(半地下駐車場とかね)でしょうか。リーマンショック前、耐震偽装をうけた改正建築基準法施行前に跋扈したミニ開発。もっともその頃から「街の景観が悪くなり、資産価値を毀損する」といった理由で区によっては開発制限をかけられてもいましたから、なんというか「鬼っ子」のような存在。それでも都心に一戸建てという「夢」を叶える存在ではありました。
 一方で限られたスペースでいかに快適な住空間を創造するか、建築家の「アーティスト魂」に火を点けたのか、あえて狭小住宅を手がけた建築士もいます。建築事例として「狭小住宅」や「9坪ハウス」といったタイトルがついた住宅写真集も出版されました。だから、この作品が話題になったとき小説とは思わなかったので、今更なんだろうといまひとつピンとこなかったのでした。

狭小住宅63 ワールドムック317
Memo男の部屋編集部
ワールドフォトプレス
2001-06


 それはともかく。
 住宅販売業者に就職し宙ぶらりんな主人公が課長の同行営業のあとに詰められる場面を読んで思い出したのが、昔勤務先の営業本部長がことあるごとにいっていた「数字は人格だ」というフレーズ。

 ネタバレご容赦で触れますが、主人公は営業車で移動するときに幹線道路を使ったことを例に、課長から仕事に対する姿勢を詰められます。見込客を案内するときに渋滞にはまってどうする、営業エリアの路地ひとつ知らない営業マンが客の信頼を得られるか、「向き不向き以前にやるべきことをやっていない」と詰められるシーンです。自分はとうに営業現場を離れていますが息が詰まりました。

 勤務先の営業本部長のいう「数字は人格だ」には二重の意味がありました。ひとつは言葉から受ける印象どおり「数字を達成できない営業マンがしのごいう資格はない」という意味、もうひとつは数字を達成する人間は、それだけのことをやっているという意味。顧客対応はいうまでもなく、顧客の要望を実現するために必要な社内調整、協力業者に対する気配りなど、仕事に向かう営業担当者の姿勢とその人となりの結果が数字だ、だから「数字は人格」なのだと懇々と説かれました。にこやかだけど目は笑っていないそんな表情をしていうのですからこんなに怖いものはない、怒鳴り散らされたほうがなんぼか楽です。
おそらく本小説の主人公君も思ったかもしれません。
主人公君は課長との同行営業をつうじて仕事のスジのようなものをつかんでいったと思います。

 この小説は、主人公のありがちな成長サクセスストーリーにも、不動産業界の内幕ものにも、ブラック業界摘発ものにも陥らず、読者を放り出すような形で終わります。自分はこのエンディングが好きです。
毎日どこか不安を抱えながら、それでも次の訪問先で話すことを考えながら営業車のアクセルを踏む、それが営業担当者の現実ですからね。

 ところで前エントリーで取り上げた「ニュータウンは黄昏れて」の文庫版のあとがきには、主人公の分身=著者の後日談が掲載されています。結局「ニュータウン」を手放し、都心にある住宅を買い求めたとあります。週末ごとに不動産業者に連れられて何物件も戸建住宅を見て回った末に、わけあり物件を即決で買ったとあります。
案内したのは、この「狭小住宅」の登場人物たちのような営業マンかもしれませんね。


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